飫肥城・大手門
昭和53年に、樹齢百年以上の飫肥杉を使用し、
釘を使わない「組み式」で復元されたものです。
12月とは思えない暖かな陽気に誘われて、九州の小京都と言われている日南市・飫肥(おび)にある飫肥城址に行ってきました。天正16年(1588)から明治初期までの280年間、飫肥藩・伊東氏5万1千石の居城でした。
日南市・飫肥城址
飫肥城の本丸御殿・松尾の丸
振徳堂
伊東祐民公(29代)が享和元年に学問所を開いたのが始まりで、
祐相公(31代)が天保元年(1830年)改築、翌年竣功したそうです。
明治の偉大な外交官・小村寿太郎生家
1855年9月生まれで、1861年に藩校「振徳堂」に入学
S54年に江戸時代初期の書院造りの御殿として建設。
湯殿には豊臣秀吉が京都・聚楽第で使用したと伝えられる
湯殿と同じものが復元されています。
小倉處平
少年時代、振徳堂に学び、19歳のときに藩用で京都に出仕し、その後、振徳堂の句読師となる。更に、江戸に出て安井息軒に学び、天下の志士と交わり、戌申の役には京都、長崎の間を奔走して国事に尽くした。やがて、長崎に遊学して藩に帰り、飫肥藩の子弟に西洋学を学ばせることを建議して、小村寿太郎外を長崎に遊学させた。

明治4年、處平は英国の学制調査を命じられて、政治・経済学を修め、帰国後、文部省の要職についたが、明治6年、征韓論が沸騰して西郷隆盛が帰郷したのを機に、職を辞し飫肥に帰った。明治10年の西南戦争に際しては、兵を募って薩軍の将として参戦し、和田越しの奮戦で銃創を負い、高畑山の山中で自決した。

處平は識見卓抜、議論堂々、異彩を放ち、「飫肥西郷」と称賛された。
小村寿太郎候は、「小倉さんが生きておられたら、大隈候に劣らぬ人物になられたであろう」と述懐している。(小倉處平顕彰碑建設委員会)
安井息軒旧宅
安井息軒は幕末から明治にかけての日本を代表する儒学者です。
寛政11年(1799)にここに生まれ、幼少から学問を志し苦学を重ねながら飫肥藩儒のち江戸に出て幕府儒官となりました。その学問の業績は、儒学の本場である大陸の高名な学者からも高く評価され、現在の漢学の基礎を確立しました。

この旧宅は安井息軒が生まれ、飫肥振徳堂に赴任する天保2年(1831)まで生活した家で、昭和54年に国の史跡に指定されました。
日南市は、NHK・朝の連続テレビ小説(わかば)の舞台となっています。
↓は、宮崎県宮崎郡清武町にある安井息軒旧宅
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